社会の変化に
建築で向き合う
株式会社 竹中工務店 大阪本店 設計部
野村直毅NAOKI NOMURA
1983年京都市生まれ。一級建築士。東山高校を卒業後、京都工芸繊維大学へ進学。2008年同大学大学院修士課程修了。同年、株式会社竹中工務店に入社。学生時代に設計した「公文式という建築」で2008年SDレビュー入選。2015年同作品で日本建築学会作品選集新人賞。その後、枚方T-SITEをはじめとする商業施設やオフィスビル、既存建築のリニューアル・耐震改修など、多様なプロジェクトに携わる。また自邸「京都 伏見の増築(古家増築UPサイクル)」が日本空間デザイン賞住空間部門銀賞、AACA賞奨励賞、日本建築士連合会賞 U40建築賞など国内外で高く評価される。住宅から公共建築まで幅広い設計に取り組み、「社会の変化に、建築で応答する」という視点を大切に活動している。
INTRODUCTION
取材場所は野村直毅さんが設計した自邸「京都 伏見の増築」。今回は野村さん自身が用意したスライドを見ながら、これまで歩んできた道のりを語るスタイルでした。まるで一冊のポートフォリオをめくるように。輝かしい実績もさることながら野村さんの穏やかな語り口で、空間まで優しい雰囲気に包まれた感じが印象的でした。
取材場所は野村さんの自邸「京都 伏見の増築」
高校生で”なんとなく”建築に興味を持ち始めた
建築との出会い
野村さんが建築に興味を持ったのは、東山高校2年生の頃。理系だったこともあるが、きっかけは意外にも身近な環境にあったという。「当時、周りには(東山特有の)おしゃれな友人が多かったんです。古着に詳しかったり、自分の好きなものをそれぞれが持っていたり。自分も何か興味を持てるものを探していました。」そんな折に出会ったのが、住まいと暮らしの雑誌『Casa BRUTUS』だった。「建築ってかっこいいなと思ったんです」と、野村さんは当時を振り返る。
さらに野村さんの価値観を大きく変えた出来事がある。高校時代の海外研修だ。海外の建築や街並みに感動した話が出てくるのかと思いきや、返ってきたのは意外な答えだった。「実は海外よりも、日本に帰ってきた時の方が衝撃だったんです。」成田空港から東京へ向かう車窓に広がる街並みを見て、「なぜ日本はこんな無秩序な街がつくられているんだろう」と感じたという。その時に抱いた違和感は、建築家になった今も消えていない。その問いは今も、答えを求め続けているようでした。
京都工芸繊維大学を目指した理由
高校時代から、野村さんは絵を描くことも好きだった。先生や友人たちから認められる機会も増え、自分なりに表現する楽しさを感じていたという。ただ、純粋にアートの世界で生きていく未来は、当時の自分にはうまく想像できなかった。「絵を描くことは好きだったんですが、美大に進んでとか、生涯の職業として確立していくイメージが持てなかったんです」
そこで大学進学の選択肢として浮かんだのが、試験科目に実技のある京都工芸繊維大学だった。建築という分野には、理系的な思考と絵やデザインの感覚、その両方が存在していた。「自分の感覚にしっくりきたんだと思います」と、野村さんは少し照れながら当時を噛みしめるように言った。
大学と大学院(研究生)で本格的に建築を学ぶ
大学時代はアメフトと建築に勤しんだ日々
大学では、3年間アメリカンフットボール部に所属した。決して強豪校ではなかったが、練習、ミーティング、試合に明け暮れる日々。建築を学びながらの学生生活は、決して楽なものではなかったという。ただ、野村さんにとって、その経験は単なる“苦しい時間”では終わらなかった。「アメフトは戦術的なスポーツなんです」そう語る言葉が印象に残っている。一人の力だけでは勝てない。それぞれが役割を担い、状況を読みながらチームとして機能していく。その感覚を経験できたこと自体が、大きな財産だったのかもしれない。
実践を通じて建築を学ぶ
アメフトを退部した後、大学4年生から大学院時代になると、野村さんの学生生活はさらに忙しくなった。設計課題や研究だけではない。学外からの依頼で実際の住宅設計にも携わるようになり、数多くのプロジェクトに挑戦する機会をいただいたという。その数は約20件(完成したものは3件)。学生としては異例の経験だった。印象的だったのは、仕事の受け方だった。「1つのプロジェクトにつき、後輩が1人手伝ってくれるなら引き受ける、という形にしていました」その結果、多くの後輩たちが実務に触れる機会を得た。
野村さん自身も、設計だけでなく、施主や職人とのやり取り、現場で起きる課題への対応など、学校だけでは学べない経験を積み重ねていった。「振り返ると、本当に恵まれていました」そう静かに語る。ただ、その経験が後のキャリアに大きな影響を与えたことは間違いないだろう。建築は、一人で完結する仕事ではない。多くの人と関わりながら、一つの形をつくり上げていく。その感覚は、アメリカンフットボールを通して学んだ“チームで動くこと”とも、どこか重なっているように感じられた。
憧れの場所|安藤忠雄事務所でインターン
大学院時代、野村さんは安藤忠雄建築研究所のインターンにも参加した。研究室の掲示板で募集を見つけると、すぐに電話をかけたという。「今思えば勢いでしたね(笑)」当時、安藤忠雄氏は東京大学でも教鞭を執っていたため、インターンには東大生が数多く参加しており、京都工芸繊維大学から来たのは野村さんを含め5名だった。しかし次第に、同じ大学の仲間たちは一人、また一人と姿を消していった。
それでも、野村さんは残った。泊まり込みでも構わない。とにかく食らいつこうと思った。「どうしても残りたかったんですよね」学生時代から住宅設計の実務を重ね、現場も見てきた。自分なりの経験があった。だからこそ、東大生たちと建築について議論を重ねる中で、ある感覚が芽生えたという。「意外と、自分も劣っていないんじゃないかと思ったんです」それは優劣の話ではない。住宅設計に向き合ってきた時間、現場で積み重ねてきた経験——そうしたものが確かに自分の力になっていることを実感した瞬間だった。「これでいいんだと思えました」静かな口調で語るその言葉に、建築家としての原点のひとつを見た気がした。
学生時代の代表作|母が営む「公文式」の設計
「公文式という建築」2008年 SDレビュー 入賞
学生時代、多くの住宅設計に携わっていた野村さんにとって、大きな転機となった建築がある。母が経営していた「公文式」の教室設計だ。規模こそ大きくはないが、子どもたちが週2回通い、学び、時間を過ごす場所だった。「子どもたちが自然と集中できる空間をつくりたかったんです」住宅設計とも、商業施設とも少し違う。そこには、“学ぶ場所”ならではの空気感が求められていた。どこに光を入れるのか。どこに居場所をつくるのか。子どもたちは、どんな距離感で机に向かうのか。単に部屋を設計するのではなく、人が過ごす時間そのものを設計していく感覚だった。
完成した「公文式という建築」は、完成前の建築を対象に評価する建築賞「SDレビュー」において、2008年に入選を果たした。ただ、野村さんの話から強く伝わってきたのは、受賞そのものの喜びというよりも、「人が使う場所をつくる」という建築の本質に触れた実感だった。振り返れば、この頃からすでに、野村さんの中には一貫した視点があったのかもしれない。建築を単なる“作品”としてではなく、人の営みを支える“場”として捉える視点だ。
その後、野村さんは、建築文化を受け継ぐ関西の名門、竹中工務店へ進む。住宅から、より大きな建築へ。個人の空間から、公共の空間へ。学生時代に培った視点は、次第に都市スケールへと広がっていくことになる。
竹中工務店に入社|住宅から公共建築へ
学生時代、住宅設計や「公文式」の設計を通して、“人が過ごす場所”と向き合ってきた野村さん。竹中工務店へ進んだことで、その視点はさらに大きなスケールへと広がっていく。担当したのは、オフィスビルや商業施設、リニューアル、耐震改修など、多くの人が利用する建築だった。「住宅は住む人との距離が近い。でも、大規模建築はもっと多くの人や社会とつながっている感覚がありました」
中でも印象に残っているのが、枚方駅前プロジェクト(枚方T-SITE)だ。蔦屋書店を中核にした複合商業施設として2016年に開業した枚方T-SITEは、“本を売る場所”にとどまらず、人々が時間を過ごし、滞在し、街との関係を生み出す空間として注目を集めた。野村さん自身も、このプロジェクトを通して、建築の役割について改めて考えるようになったという。「建物をつくるというより、それぞれの場所で人がどう過ごすかを考えていた気がします」それは、学生時代の住宅設計とも、どこか地続きの感覚だったのかもしれない。ただ、スケールは大きく変わった。個人のための空間から、都市の中で多くの人が共有する空間へ。建築は単体で存在するのではなく、街や社会との関係性の中で成立していることを、より強く実感していったという。
また、竹中工務店では、新築だけでなく、既存建築のリニューアルや耐震補強にも数多く携わった。その一つが、京都大丸の耐震補強工事だった。京都の中心部・四条に位置する大丸京都店は、多くの人にとって馴染みのある建物だ。外壁を一新したことで、建物の印象は大きく生まれ変わった。しかし、その裏側では、建築を未来へ使い継いでいくための更新が積み重ねられている。「建物を壊して新しくするだけではなく、今あるものをどう活かしていくか。その視点は大きかったですね」高度経済成長期以降、日本では大量の建築がつくられてきた。
一方で、人口減少やライフスタイルの変化によって、建築に求められる役割も少しずつ変わり始めている。耐震性能を高める。用途を更新する。新しい機能を加える。そこには、単に古い建物を残すという発想ではなく、時間を重ねてきた建築の価値を引き出しながら、次の世代へつないでいく感覚があった。振り返れば、その視点は現在の自邸『京都 伏見の増築』にも、どこか通じているように感じる。新しいものをゼロからつくるだけではなく、今あるものを読み取り、活かしながら更新していくこと。野村さんの建築には、一貫してその視点が流れている。
その他に野村さんが関わった仕事の一例
——関西国際空港LCCターミナル(泉佐野市)、三浦工業本社ショールーム(松山市)、中山視覚福祉財団 新中山記念会館(神戸市)、APU立命館アジア太平洋大学Green Commns(別府市)等々
自邸「京都 伏見の増築」(古家増築UPサイクル)
“余白”をつくる建築
冒頭でも紹介した今回の取材場所「京都 伏見の増築」は、野村さん自身が設計した自邸。設計のキーワードとして挙げてくれたのが、「余白」という言葉だった。背景にあったのは、コロナ禍による働き方の変化だという。在宅勤務が増える中で、仕事と暮らし、そして子育てが、同じ空間の中に同時に存在するようになった。「これまでの家だと、公私の切り替えがうまくできなくて、ずっと仕事をしている感覚があったんです」この土地を取得した理由の一つも、既存の建物が取り壊されてしまうかもしれない、という思いからだったという。伏見という場所は、野村さん自身が生まれ育った地元でもある。長い時間を重ねてきた建物や街並みへの愛着も、自然とあったのだろう。
そこで野村さんは、細長い敷地と既存家屋の特性を活かしながら、生活ゾーンと仕事ゾーンをゆるやかに分ける構成を考えた。特徴的なのが、それぞれの空間をつなぐ長い廊下だ。奥行き約40メートル超。単に移動するためだけではない“余白の動線”とも言える空間だった。仕事から生活へ。生活から仕事へ。すぐに切り替わるのではなく、一度その廊下を通り抜けることで、気持ちを少しずつ切り替えていく。その距離感が、結果的に、仕事と暮らしの分離と融和の両方を生み出していた。
▼ 雑貨 ete fu ete (エテフエテ)
〒612-0869 京都市伏見区深草直違橋北1‐463
E-mail:etefuete.kyoto@gmail.com
Web:https://etefuete.wixsite.com/kyoto
Instagram:@etefuete.kyoto
実際、完成後には多くの反響があったという。「働き方や暮らし方について、相談されることが増えました」思えば、この住宅もまた、“社会の変化”に対する一つの建築的な応答だったのかもしれない。新しいものをただ足すのではなく、今ある建築を活かしながら、人の暮らしに新しい余白をつくっていく。そこには、野村さんがこれまで向き合ってきた建築の思想が、静かに流れていた。
後輩たちに向けたメッセージ
最後に、東山の後輩たちへの言葉をお願いした。野村さんが語ったのは、意外にも建築の話ではなかった。「自己分析が大事だと思います。自分が何を好きなのか、どんな時に楽しいと感じるのか。それを理解することが、まず大切なんじゃないかと」高校時代に建築と出会った野村さん自身も、そうやって自分の進む道を見つけてきた。社会の変化に応答し続ける建築家の原点は、案外そんなシンプルな問いの積み重ねにあるのかもしれない。
編集後記
今回の取材で印象に残ったのは、野村さんの穏やかな人柄でした。決して声高に自分の作品を語るわけではありません。けれど、その言葉の端々からは、建築を通して社会に向き合おうとする静かな意思を感じました。取材場所となった自邸「京都 伏見の増築」の入り口部分には、奥さまが営む雑貨店「エテフエテ」があります。住まいとお店がゆるやかに一体となった空間は、どこか肩の力が抜けたような心地よさがありました。中庭から差し込む光や風。人の気配が自然と混ざり合う空気感。その柔らかな雰囲気は、野村さん自身の人柄ともどこか重なって見えました。建物を残すだけではなく、そこで育まれてきた時間や暮らしを、次の世代へつないでいくこと。野村さんの建築を見ながら、そんなことを考えていました。――社会の変化に、建築で応答する。