ホテリエになるなんて
思ってもみなかった人生

平成8年度卒

株式会社京都ホテル ホテルオークラ京都 料飲部 宴会サービス課 課長

前田 和孝KAZUTAKA MAEDA

1978年、和歌山県生まれ。東山高校卒業後、佛教大学文学部仏教学科へ進学。学生時代は僧侶の資格を取得し、DJや飲食店でのアルバイト、アメリカでの生活など、多彩な経験を積む。その経験を通して日本のサービス業の魅力に気づき、株式会社京都ホテル(当時の京都ホテル、現・ホテルオークラ京都)へ入社。 以来、宴会サービス課を中心に、結婚披露宴や祝賀会、国際会議など、数多くの人生の節目に携わってきた。自らを黒子のような存在、空気のような存在と語り、常に主役であるお客様に寄り添いながら、一日一日を大切に積み重ねているホテリエ。

INTRODUCTION

「ホテリエは、黒子のような存在であり、空気のような存在。」そう語るのは、ホテルオークラ京都で約30年近く宴会サービスに携わる前田和孝さんです。結婚披露宴や祝賀会、国際会議――。人生の節目となる一日を決して主役になることなく支え続けてきました。「主役は、あくまでお客様。」その言葉の奥には、目立たないからこそ生まれる価値を信じ、一人ひとりの特別な時間に寄り添い続けてきた、前田さんの仕事への誇りがありました。

和歌山の中学生が、東山高校を選んだ理由

人生最初の選択

「和歌山の田舎から出たかったんです。」

和歌山の中学時代。前田さんは前列右から4番目

当時、和歌山県内の高校へ進学するのが自然な選択でした。しかし前田和孝さんは、その道を選びませんでした。きっかけは、兄が通っていた佛教大学を通じてできた縁と兄の知人から東山高校を勧められたのです。それともうひとつ決め手になったのは、中学時代、たまたま春の高校バレーで東山高校が出場する姿を目にします。あの白いユニフォームへの憧れが、東山高校への進学を決意することに。

東山高校では、未経験ながらバレーボール部へ入部します。入部の条件は「まず1週間、厳しい練習を耐え抜くこと」。経験者に交じって必死にボールを追い続け、その努力が認められて正式な部員となりました。練習は想像以上に厳しく、仲間の中には途中で退部してしまう同級生も少なくありませんでした。それでも前田さんは最後まで続け、3年生ではキャプテンを任されます。ただ、同期として最後まで残ったのは、たった3人。京都府予選では惜しくも敗退し、全国への道は届きませんでした。

「当時は本当にしんどかったですね...。」

手が届かなかった”全国”という場所。しかし前田さんが引退した後、下級生が中心となった新チームは、そのすぐ後の大会で全国大会に進みます。届けられなかった夢を後輩たちが届けてくれた――その事実は、前田さんにとって悔しさと同時に誇りでもありました。それでも、苦しい練習を乗り越えた3年間は、その後の人生の大きな土台になりました。ホテルマンとして長年働くなかでも、東山で培った「続ける力」は何度も自分を支えてくれたといいます。東山での高校生活は、前田さんにとって初めて故郷を離れ、自ら選んだ道を歩んだ時間でした。その一歩が、その後の人生を大きく動かす始まりとなったのです。

東山高校バレーボール部。前田さんは前列左から3番目
クラスメイトとの何気ない日々が楽しかった(前列左端:前田さん)

ホテリエになるなんて、思ってもいなかった

寄り道は無駄じゃない

東山高校を卒業した前田さんは兄と同じ佛教大学へ進学。文学部仏教学科で学び、学生時代には僧侶の資格も取得しました。とはいえ、将来の進路が決まっていたわけではありません。

「お坊さんになろうと思っていたわけではないんです。」

大学で仏教を学ぶ一方、飲食店でアルバイトを始めます。そこで知ったのが、人と接することの面白さでした。お客様と会話を交わし、相手の反応を感じながら働く。教室で学ぶのとは違う、人と人との距離の近さに惹かれていきました。もうひとつ夢中になったのが音楽です。DJとして音楽にのめり込み、さまざまな人と出会う。大学生活のなかで、前田さんの世界は少しずつ広がっていきました。

さらに外の世界を見てみたいとアメリカへ渡ります。現地では約3ヶ月、働きながら生活をしました。大学で仏教を学び、僧侶の資格を取り、飲食店で働き、DJに夢中になり、そしてアメリカへ。振り返れば、どれもホテリエになるために選んだ道ではありませんでした。けれど、このアメリカでの経験が、前田さんの進路を思いがけない方向へ動かしていくことになります。

日本のサービス業の方がおもしろいやん

ホテルとの出会い

アメリカで働きながら生活するなかで、前田さんは日本との「サービスの違い」を肌で感じるようになります。たとえば、チップという文化。サービスを受ければ、その対価としてチップを渡す。日本とは異なる考え方に触れるうちに、それまで当たり前だと思っていた日本の接客を外から見つめ直すようになりました。相手の様子を見ながら、必要なことを先回りして考える。言われる前に動き、気持ちよく過ごしてもらえるように心を配る。アメリカへ行ったからこそ、そんな日本のサービスの面白さに気づいたのです。

「日本のサービス業の方がおもしろいやん。」

帰国後、前田さんはサービス業を仕事として意識するようになります。そこで出会ったのが、ホテルという世界でした。最初からホテリエを目指していたわけではありません。それでも、飲食店で知った人と接する楽しさや、アメリカで気づいた日本ならではのサービス。その一つひとつが少しずつ一本の道につながっていきました。そして帰国後、いくつかの経験を経て現在の職場である株式会社京都ホテル(当時の京都ホテル、現・ホテルオークラ京都)に入社。思い描いていたわけではなかったホテリエとしての人生がここから始まります。

ホテルオークラ京都は、1888年(明治21年)創業の京都で最も歴史がある老舗ホテル
京都市の中心部、河原町御池に位置し、地下鉄東西線「京都市役所前駅」に直結
ヨーロピアンテイストと京の風情が調和したクラシカルで荘厳なロビー
大階段はロビーウェディングや記念撮影のスポットとして広く親しまれています

「人を喜ばせる仕事がしたい。」

そんな思いに一番近い場所がホテルだったのです。入社後に配属されたのは、宴会サービス課。結婚披露宴や祝賀会、国際会議など、人の人生の節目に寄り添う仕事が始まりました。しかし、その頃の前田さんはまだ知りません。ホテリエという仕事が「黒子のように支える」という自分らしい働き方につながっていくことを。

ホテリエという仕事が教えてくれたこと

仕事を知る

人生には、一度きりしかない日があります。ホテルの宴会サービスは、そんな特別な一日を支える仕事です。前田さんが配属された宴会サービス課では、宴席を滞りなく進めるため、会場の設営から進行確認、スタッフ同士の連携まで、あらゆる準備が求められました。料理を運ぶことだけが仕事ではありません。お客様が安心してその時間を過ごせるよう、目に見えないところまで気を配ることも、大切な役割でした。新人時代は思うように動けず、先輩から厳しく指導されることもありました。

それでも、ひとつの宴席を無事に終え、お客様から「ありがとう」と声を掛けられた瞬間、それまでの苦労が報われるような気持ちになったといいます。学生時代、飲食店で感じた接客の楽しさ。その延長線上にホテルの仕事はありました。しかしホテルで学んだのは、目の前のお客様だけを見るのではなく、その場に集うすべての人が心地よく過ごせる空間をつくることでした。ひとりでは成り立たない仕事だからこそ、周囲を見渡し、自分に何ができるかを考えながら動く。その積み重ねが、前田さんの仕事に対する姿勢を少しずつ育てていきます。やがて、その姿勢は一つの信念へと変わっていきました。

「主役は、いつもお客様。」

この考え方こそが、ホテリエとして歩み続ける前田さんの原点になっていきます。

黒子のように、空気のように

仕事の哲学

「ホテリエは、黒子のような存在なんです。」前田さんは、自らの仕事をそう表現します。舞台の主役は、あくまでお客様です。結婚披露宴や祝賀会、国際会議――。そこには、それぞれの大切な時間があります。ホテリエは、その時間を気持ちよく過ごしてもらうために、必要なことを考え、先回りして動く。困ったときにはすぐそばにいて、必要がなければ存在を感じさせない。そんな「空気のような存在」であることが理想だといいます。

もちろん、そのためには会場全体を見渡す視野が欠かせません。お客様の表情や動き、スタッフ同士の連携、進行のわずかな変化まで、一歩先を考えながら動く。何かが起きてから対応するのではなく、何も起きないように準備する。その積み重ねが、お客様にとって心地よい時間につながっていきます。ホテリエは、誰かの人生の節目を支える仕事。その主役は、決して自分ではありません。

同じ一日は、ひとつとしてない

実践の日々

宴会に「いつも通り」はありません。人数も違えば、お客様も違う。進行も空気も、その日、その会場でしか生まれないものがあります。だから前田さんは、会場に立つたびに「今日は何が起こるだろう」と考えながら、一日を迎えるといいます。どれだけ綿密に準備をしても、予定通りに進まないことはあります。進行が変わることもあれば、突然の対応が必要になることもある。そんなときこそ、慌てず、周囲と連携し、その場で最善を尽くす。ホテリエとして積み重ねてきた経験が試される瞬間です。

これまでには、国内外の要人を迎える国際会議を担当する機会もありました。緊張感のある現場でも、前田さんが大切にしていることは変わりません。「目の前のお客様に、安心してその時間を過ごしていただくこと。」その積み重ねが、誰かにとって一生忘れられない1日を支えているのです。

ダライ・ラマ14世が来日した際、数日間接遇を担当。見事なまでの接遇に感激して記念撮影を頼まれたそう。
京都賞歓迎レセプション。受賞者に加えて高円宮妃殿下や京都府知事、市長が出席される宴会を担当。
東山校友会の総会・懇親会でもお世話になっています!(いつもありがとうございます)

今度は、自分が支える番

母校への恩返し

ホテリエとして、多くの人の特別な一日を支え続けてきた前田さん。現在はもうひとつ大切な場所を支える役割を担っています。それが、母校・東山高校バレーボール部を支援する「東山バレー部後援会」です。2020年に東山高校バレーボール部は春の高校バレーで悲願の初優勝を果たしました。 その2年後、青少年の育成とバレーボールの振興を目的にOBや関係者による後援会が発足します。

当時、バレーボール部で1学年上だった先輩が会長に、前田さんは副会長に就任。そして2026年春、そのバトンを受け継ぎ、会長を務めることになりました。後援会では、バレーボール教室の開催やオリジナルグッズの企画・販売、SNSでの試合結果や活動報告などを通して、選手たちの挑戦を支えています。

高校時代、未経験でバレーボール部へ飛び込み、先生や先輩、ともに厳しい練習を乗り越えた仲間たちに支えられながら成長した前田さん。今は、その経験を次の世代へ返していく立場になりました。ホテルの仕事でも、母校への活動でも、大切にしていることは変わりません。自分が前に立つのではなく、誰かが力を発揮できる環境を整え、その挑戦を支えることです。支えられる側だった一人の部員は、今、母校を支える側に立っています。

自分らしい道は、歩きながら見つける

後輩へのメッセージ

前田さんは、後輩たちに特別な成功論を語ることはありません。「最初から将来の道が決まっていなくてもいい。」東山高校を卒業してから、自分自身がそうだったからです。大学で学び、アルバイトに夢中になり、アメリカへ渡る。決して一直線ではない道のりでした。それでも、その寄り道のすべてが今の仕事につながっています。だからこそ、焦らなくていい。目の前のことに一生懸命向き合っていれば、その経験はきっと自分の力になる。

そして何より、人との出会いを大切にしてほしい。人生は、一人では歩いていけません。これまで支えてくれた人たちとの出会いがあったからこそ、今の自分がある。だから前田さんは、後輩たちにも、自分らしい歩幅で自分だけの道を歩んでほしいと願っています。

和歌山を飛び出した一人の少年は、多くの出会いを重ねながら、誰かの人生に寄り添うホテリエになりました。これからも前田さんは、自分らしい道を歩みながら、誰かの特別な一日を静かに支え続けていきます。

編集後記

前田さんと話していて、ずっと感じていたのは「言葉の重み」だった。同じ「おもてなし」という言葉でも、誰が発信するかで全然違って聞こえることがある。前田さんの場合、一つひとつの言葉に、それを裏付けるだけの時間が乗っている感じがした。軽々しく言っているのではなく、本当にそう思うに至った過程が、言葉の後ろに透けて見える。人生をかけて積み重ねてきたものが、こんなにも静かな形で日々の仕事ににじみ出ることがある。前田さんの話を聞いて、ホテリエという仕事の解像度が上がった気がした。